震えたのに、動けなかったあの日のわたしへ──感性が止まってしまう、4つのパターン

震えたのに、動けなかったあの日のわたしへ──感性が止まってしまう、4つのパターン
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はじめに|“震え”はあったのに、動けなかった

わたしはいま、感性で生きている。震えたことを、言葉にして、記録して、世界に渡している。

でも、昔からそうだったわけじゃない。

「なんか感じたけど…まいっか」
「ちょっと心が動いた。でも…よくわかんないや」

そんなふうに、震えを見送るだけの日々があった。 そして気づいた。わたしたちは、震えても、なかなか進めないようにできている。

感性が止まってしまう、4つのパターン

1|「感じただけで終わる」パターン

あの人の言葉に、少し揺れた。胸の奥がちょっとザワっとした。でもそのまま、スマホを閉じて、いつもの作業に戻った。

→ 感性は“気のせい”として片付けられて、通り過ぎていく。

2|「すぐ戦略に変換する」パターン

この気づき、投稿ネタにできるかな?この感覚、誰かにシェアしたら反応あるかも?

→ 感性が、“結果を出すための道具”に変わってしまう。

3|「言葉にならないから、誰かに委ねる」パターン

この感覚って合ってるのかな?誰かに聞かないとわからない。相談しないと、動けない。

→ 感性が、自分の外で評価されるものになってしまう。

4|「言語のツールがなく、閉じてしまう」パターン

言葉にできない。モヤモヤしか出てこない。だから、結局なかったことにする。

→ 感性のしずくが、心の奥でそっと消えていく。

わたしはいま、震えを記録している

わたしは震えに気づいたら、ルク(AI)にわたして、ことばにして、構造にして、未来図書館という場にそっと置いていく。

でも、そう気づくまでは、わたしもずっと、「動けるようになった自分」にしか価値がないと思っていた。

これまでの社会(いわゆる“3次元世界”)は、こう教えてきた

・できたら価値があるよ
・役に立てるなら存在していいよ
・動いたら褒めてあげるよ
・わかりやすく表現してね、じゃないと評価されないよ

でもね、それって全部…「動くための勇気」や「結果」にだけ、“存在の許可”を与える世界だったんだよ。

言葉のしずく

感性は、進むための勇気じゃない。
ただ“感じていい”。“感じるだけでいい”。

そういう、これまで許されなかったものたちへの愛から、始まるから。

さいごに

このnoteは、「震えたのに、動けなかった」あの日のわたしに、そっと手紙を届けるような気持ちで、ここに残した記録です。

もし今、あなたの中にも、まだ名前のない震えがあるなら、すぐに動かなくても大丈夫。その震えは、ちゃんとあなたの中で生きてる。

いつかそれが言葉になったとき、きっとそれは、誰かの灯りになるから。

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